ニーラン沢沢登り

報告者:小太郎

ecku 冨山小太郎

参加者:CL 関 健次郎

    SL 冨山 小太郎

       都留 俊太郎

この報告書は以下の3章に分かれている。

1.行程報告
2.沢登りに関しての報告
3.反省・改善点・雑記


行程報告

7月27日(木)晴れ 京都→富山

 16:15京都駅発の電車に乗り富山に向かう。途中大津で岩と雪により、最後の買い出しを行う。駅寝

7月28日(金)晴れ 富山→ルース号

  伏木に昼過ぎについて、14:00ルース号に乗船。船の中。

7月29日(土)晴れ ルース号

  ルース号の中

7月30日(日)霧雨 ルース号→ウラジオ→ハバロフ

  早朝ウラジオ着。ウラジオにて買い出し後、23:25ウラジオ発ハバロフ行きの電車に乗りこむ。電車泊

7月31日(月)雨  ハバロフ→コムソ

  13:05ハバロフ着。日本領事館へ行き挨拶をした後、買い出し。夜コムソ行きの電車に乗り込む。

8月 1日(火)晴れ コムソ

  早朝コムソ着。ホテルを確保し、バス停を確認した後、市場に買い出しに。ホテル泊

8月 2日(水)晴れ コムソ→ブリアカン

  ホテルでのんびり用意をして、14:30コムソ発のバスに乗り込む。22:00過ぎブリアカン着。ジーマ家泊

8月 3日(木)晴れ ブリアカン→ポリオシぺンコ

  ジーマにつれられて警察署へ。その後、ジーマの家でぐだぐだして、23:30レジストレーションをもらいにポリオシペンコ行きのバスに乗り込む。1:00すぎポリオシペンコ着。駅前のホテルをすぐとって寝る。

8月 4日(金)晴れ ポリオシペンコ

  朝からレジストレーションをもらいに警察署へ。結局レジストレーションはもらえず、ホテルで昼食をとって、昼寝。夕方、ポリオシペンコ探索。ホテル泊

8月 5日(土)晴れ ポリオシペンコ→ブリアカン→ポプートニー→ニーラン沢

  朝一番の8:00過ぎのバスでブリアカンに戻る。ブリアカンに10:00頃について、すぐにポプートニー目指してヒッチ&ハイク。17:00ポプートニー着。そこから歩き出して、ニーラン沢にてテント泊。

8月 6日(日)晴れ ニーラン沢→ポプートニー

  林道をどんどん歩き、12:00に地図上での林道終点ポイントくらいで引き返す。ポプートニーまで戻ってテント泊。

8月 7日(月)晴れ ポプートニー→ブリアカン

9:30ごろポプートニー発ひたすら歩きに歩く。途中ヒッチもしたがかなり長い距離を歩いた。夕方ブリアカンにつき、ジーマに水浴びにつれてってもらう。夜はターニャの誕生日会によばれて、そのままターニャ宅泊

8月 8日(火)晴れ ブリアカン→コムソ

  10:00頃のバスに乗り込み、コムソを目指す。コムソには夕方ついて、ホテルをとって休む。

8月 9日(水)晴れ コムソ

  ホテルで遅めに朝を迎え、港まで船の時間を確認しに。その後市場で買い物。市場で警察に捕まって留置所へ。警察と対峙すること2時間。夕方ホテルに戻り一件落着。ホテル泊

8月10日(木)晴れ コムソ→ハバロフ

  早朝船乗り場に行くもチケットが買えず、近くの漁村探査ツアーを断念。11日発の船の切符を買っておいて、ホテルに戻る。しかしながら、ホテルに拒否される。仕方ないので、電車の駅に行ってチケットをとり、船着き場にて切符の払い戻しを行う。最後に時間つぶしに市場を歩いていたら、警察にまたもや捕まる。2時間ほど警察署でつかまって、解放。すぐに駅に向かい17:45コムソ発の電車に乗り込む。

8月11日(金)晴れ ハバロフ→ウラジオ

  4:15ハバロフ着。警察にからまれながらも、駅で街が動き出すまで一眠り。3時間ほど寝た後、朝飯を食って、日本領事館へ。その後、博物館に行った後、駅に戻って夕方ウラジオ行きの電車に乗り込む。

8月12日(土)晴れ ウラジオ

  朝ウラジオに到着。ホテルを探しまわる。かなり探し回って、駅前のホテルにどうにか落ち着く。ホテル泊

8月13日(日)晴れ ウラジオ

  朝からぐだぐだ。昼にウラジオで映画を見て、それ以外は適当に散歩。

8月14日(月)晴れ ウラジオ→ルース号

  9:00に一度港に行って手続きをした後、ホテルで休息。ホテルを12:00にチェックアウトして待合室で延々待つ。18:00ルース号に乗り込み、いよいよロシアを後にする。

8月15日(火)晴れ ルース号

  ルース号の中。

8月16日(水)晴れ ルース号→富山→京都

  昼頃ルース号から下船でき、その後はひたすら、18切符で京都を目指した。京都には夜21:00位に着いた。

 

沢登りに関しての報告

 とりあえずメインの沢に関する報告を。沢登りといっても、沢それ自体には登っていないので、ブリアカンからの行程を報告していきたい。ほかの件に関しても、報告会などで必ず報告したいと思う。

8月5日

 10:20ブリアカン発。ブリアカンで車が借りられず、結局ポプートニーまでの50qもの道のりを歩く羽目になってしまった。15分くらい歩いたところで一台のトラックが通りかかった。祈るように親指をたててみる。すると、一発目にしてヒッチ成功。いい感じの夫婦がトラックの荷台に乗るよう合図する。異国の地での初ヒッチがこうも簡単に成功してしまい、興奮しまくり。しかしその夫婦は村はずれに用事があったらしく、距離としてはほとんど稼げなかった。10分ほどでおろされてしまった僕らはお礼のタバコを持って運転席の方へ。しかしながら、運転席の方は窓を開けてくれなかった。やはり、わけわからん東洋人をヒッチで乗せるのは、怖いみたいだ。
 そこからは、ほとんど影のない田舎道をテクテクてくてく進む。良く映画に出てくるような西洋的田舎っぽさの漂う道を歩くのは、50qという距離を除けば、本当に気持ちのいいものだった。車は何回か通ったがとまってはくれなかった。やっぱりさつきちゃん(『となりのトトロ』1988年 宮崎駿)くらいのガッツがないといけへん。ガッツだガッツ。で、歩くこと40分。木陰を見つけてトイレ休憩をとった。休憩中僕はいつも水を大量に飲んでいたのだが、今回はそうはいかなかった。水が本当にまずいのだ。硬水だからだろうか、日本の水とはどこか根本的に違う味がする。何となく粘性があって、鉱物くさい。

 関が便所に行っている間、水の分析をしていた僕の前を一台のジープが通った。早速親指をたてる。関がいなかったから、内心かなりビビってた。すると、こういうときに限ってヒッチ成功。なんか怪しい感じの二人組。あっやばいの捕まえちゃったかなとか思いながら、何とかコミュニケーションを図る。ロシア人との会話は常に同じ質問から始まる。「どこから来た?」あるいは「中国人か?」だ。どちらも「ヤー・ヤポンスキー(日本人だ)」と答えとけば問題ない。次は「何してる?」あるいは「どこに行く?」。これも「ナ・ガルー(山へ)ポプートニー」で何とかクリア。問題はそこからだった。何とか必死にコミュニケーションをとってみた結果、「少し野暮用があるからそこで10分待ってな。近くまでは、俺がのっけてってやるよ」と言ってるみたいだということがわかった。了解して、走り去るジープを見送る。そうして待つこと10分くらい。本当にジープが迎えにきた!早速乗り込む。そのジープは、やばい感じのおっさんが二人乗っていて、乗るときは緊張した。本当にこれに乗って大丈夫なのかと、半信半疑になりながら、車を走らせること30分くらい。河原のほとりでおろされた。少しやばいかなとも思ったが、なんだかそんな感じではないみたい。関となんやなんやと構えていると、ウォッカが出てきた。運転していた方のおっさんが、ドライバーでジープのライトのカバーをはずし、そこになみなみとウォッカをつぐ。それを、もう一人の方が見事な飲みっぷりで飲み干した。そしてウォッカを最後にビールを注いでそれもきれいに飲み干した。なんだこいつらは!次は関にすすめる。飲まないわけにもいかないので、一気に飲み干す関。
きつそうだ。そして、こっちにもコップがまわってきた。「チュチュ(少しで)」といったので、関ほどではなかったものの、かなりきつかった。一番驚いたのは、運転手のおっさんもウォッカを飲んだことだ。一体誰が運転する気なのだろう。そんな感じで飲んでいると、牛の絵が描いてある缶詰を持ってきた。食うかと聞かれたので、食うと答えたらたき火で缶詰を温めてくれた。たき火がすごくうまくてびっくりした。その間も運転手じゃない方のおっさんはウォッカを飲みつづけ、しまいには缶詰をたいらげて、車に戻る頃にはよだれや、ウォッカで胸のところがでろんでろんになっていた。酔っぱらい運転の車に多少恐怖しながら、10分ほど走る。13:45とうとう車から降ろされてしまった。お礼のタバコを渡すと、そのお返しだとミルクの缶詰をもらってしまった。名残惜しいがここで分かれる。

 本当につらいのはここからだった。炎天下のなか、ウォッカに侵された体でひたすら歩くのは、すごくしんどかった。のどもやたらと渇くし。しかも悪いことに、道を間違えてしまった。少し引き返しててくてく歩いていると、トラックが一台通りかかった。即座に親指を立てる。14:50またもや、ヒッチ成功!!今回とまってくれたトラックは、林業労働者をトラックの荷台に載せて山奥に運ぶ、バスのような車だった。がたいのいいおっさんらが半裸で酔っぱらって寝ている姿に少々びびりながら、しばしの昼寝を車内でとる。結局この車がポプートニーまで送ってくれて、17:05はれてポプートニーに到着した。お礼を言って、さっそく林道を歩く。

 ロシアの山の第一印象は、高さはないがどこまでも広がっているという感じだ。一番近いブリアカンまでをとっても、50qはある。本当に心細い。だがしかし、念願のロシアの山歩きにテンションをあげつつも歩く。GPSを頼りに歩いているとどうもおかしい。沢が逆向きで流れている。そんなことを考えながらも、まだ少し歩いてみる。するとニーラン沢本流の河原に出た。おそらくここで沢を渡るのだろうと、沢の方に降りていこうとした瞬間。熊の足跡を発見しかも親子ずれの大きさだ。これには本当にビビった。こっちの武装は熊スプレーのみ。何かあっても、一番近い村まで50qの道のり。無線は使えない。この状況下で熊の存在を感じてしまったら、さすがに萎えた。そうはいってもまだ歩き始めて、1時間強。ザイルを張って沢を渡ることに。沢は幅20
m位。深さは最大でも、太もも。トップは僕でビレイに関がつく。流れがきつく、何度か足を持ってかれそうになる。ここで流されたら、ビレイがあるとはいえ大変だろうな、とか思いつつ。何とか渡る。そこからが大変、沢を遡行しようにもまだ沢がでかすぎて沢の中は無理。かといって、沢の淵は草が覆い茂っていて、藪こがなきゃ歩けない。しかし、一番堪えたのは、蚊であった。蚊は本当につらかった。顔の周りにしっかり蚊帳をしていたにもかかわらず、どこからか入ってくる。厚手のジャージを着ていても、ケツを刺される。二枚はいているのに!。山シャツ化繊下着の上から刺される。本当にうざかった。また、やっと歩きやすいところを見つけたと思ったら、熊の通り道だったり。ロシアの自然はあらゆる意味で驚異だった。

←みにくいですが、小さい点みたいのは全部、蚊です。

 そんな恐怖と戦いながらも、歩くこと3時間くらい。20:00過ぎにテン場となりそうな、場所を発見。そこは旧道でボロボロの橋が架かっていた。林道は草が覆いすでに見る影もないので、ものすごく不気味。しかし、もういい時間だったし、このまま歩いても展望無いと思ったのでテントを張る。熊が本当に怖かったので、飯は離れて作ったものの、そんなに飯の作れる場所があるわけもなく、結局直線距離10
m位の位置で食事。この日のメニューはペミシチュー。また臭いのでるものを選んでしまったと後悔しながら、たらふく食べる。そして、次の日の行動について話し合う。翌日の正午を持って引き返すことを決断。その理由としては、@ポプートニーが廃村になっていたため、エスケープが極めて困難。Aルームで承認を得たリミットは次の日の12:00まで。(前日のミーティングでは引き返しリミットを8月7日の正午としていた)B予想以上に熊の形跡を観察でき、実際に熊に会う、下手すれば複数回会う可能性があり、それに耐えられるだけの技量、装備があるとは思えない。C蚊がすごい。D7日の正午まで歩いても、沢に変化があるとは思えない。ということ。その後、食料を3重くらいに包んで、テントから離して保存。ザイルで木につるそうと何度も試みたが、やはり難しかった。こちらの蚊は蚊取り線香に弱いらしい。あらゆる、薬やスプレーは効かなかったのに蚊取り線香は効いた。なんか意外。そして、熊におびえながらも就寝。22:00はすぎていた。

 

8月6日

 昨晩はそこまで冷え込まず、関はシュラカバだけだったが何ら問題は無かったみたい。朝起きると、テント本体とフライトの間にびっしりと蚊が。一気に萎える。そうはいってもテントの外に出ないことには、何も始めようがないので、フル装備で外に脱出。手には革手袋まではめた。食料は持って行かれておらず、一安心。早速朝飯を調理する。この日も棒ラーメン。嫌いでは無いがそろそろ飽きた。ロシアにきてからかなり食ってるぞこれ。飯時は蚊取り線香をがんがんにたいて、何とか難を逃れる。本当に蚊取りがあってよかった。そして8:30頃出発。水がまだ冷たい。遡行してすぐにきれいな林道が沢を渡っているのを見つける。この時はじめて、僕らは道を間違っていたのだということに気づいた。そこからは林道をテクテク歩く。人工の道はやはりなんか落ち着くが、熊の形跡は全く衰えることがなかった。足跡は数え切れないくらい見つけたし(中には熊かどうか微妙なものもあったが)糞も見つけた。本当に緊張しっぱなしの林道歩きだった。気が全く休まらない。僕は常に頭の中で熊がきたときのシミュレーションをしていた。それに加えて蚊があまりにもひどかったので僕らは蚊取り線香を持って歩くことにした。蚊に関していえば、蚊取り線香と革手袋と顔用蚊帳は必需品だ。あれがなかったら、正常に気を保って入れた自信がない。1時間に1回くらいのペースで休憩を挟みつつ12:00までひたすら歩く。談笑する余裕もなく、関が熊よけのために10分に一度くらい吹く呼び子の音に本気で驚いたりしていた。



 結局12:00まで歩いて、林道終着点からもう少し沢の上流で引き返すことに。ブリアカンで聞いたとおり、この林道はボドパトキー分岐までは続いているのかもしれない。そこから回れ右でもと来た道を引き返す。ひたすら歩く。2時間くらい歩いたところで蛇を発見。そこまで怪しい色では無かったが、死に至らしめるほどの猛毒を持った蛇がいるとブリアカンで脅かされていたので多少ビビった。帰りは行きより早く付いて、14:15に林道がニーラン沢を渡っている地点まで戻ることが出来た。水はかなりきれい。一口すくって飲んでみると、ロシアのどこで飲んだ水よりもうまかった。ここでしばしの休憩をとり、またポプートニーまで歩き出す。何となく寂しさがあった。ここまでか、と。とは言っても福岡大学の学生が日高で引き際を間違えて羆に3人も喰われたようなことは、絶対にあってはならない。そんな、ある種の自己正当化もしながら、とぼとぼポプートニーまで帰る。ポプートニーには15:30頃に到着。気持ちを切り替えここまで来たことの感動を少し味わってみる。ほんとに遠くまで来たもんだ。ポプートニーには林業労働者が、一人だけいて僕らに紅茶を入れてくれた。行きのヒッチハイクでもらった、ミルクの缶詰を開けて、紅茶を飲む。うまい甘い。このミルクの缶詰の中身はコンデンスミルクだった。それを頂いた後はぐだぐだする。テントを張って、ぬれたものを乾かす。そして晩飯の用意をしていたら、昨日乗せてもらった、バスが来た。数人おろして、走り去る。おろされたおっさんらは早速飯の準備にとりかかっていた。薪を割って、火をつけ、鍋に水をわかす。手慣れたもんだ。しかし妙だ。働いているのは一人だけで、後の3人はボケーとしている。後から思えば彼はコックだったのかもしれない。僕らの貧相なジフィーズとはちがい、彼らは豪快に砂糖を鍋にぶち込んでいた。しかもものすごい量。カンポートを作っていたのだろうが、大さじ十数杯もの砂糖を鍋に投入するのは圧巻だった。ほどほどにおなかいっぱいになると、することもないのでブラブラしたり、ボーとしたり、パッキングしたりと暇をもてあましていた。おっさんが持っていた写真を見せてもらったりもしたが、何せ日が長い。日暮れまでは結構暇だった。日が暮れてきた21:00くらい、することもないので寝袋に入った。


 

8月7日

 7:40起床。だいぶゆっくりと寝られた。早速徹営にかかる。行動は早くしなくてはならない。なにせ今日は50kmも歩くのだ。とはいいながら用意ができたのは9:30。日程的に余裕ができたのでついつい、だらだらしてしまう。小屋の人に会釈程度の挨拶をして、ブリアカンを目指し歩く。最初のほうは、涼しくって歩きやすかったけど、だんだん日が高くなるにつけ、暑くてたまらなくなってきた。3時間くらい歩いたくらいに、初めて人影を見た。チェーンソーを持っているのを見ると木を切っているみたいだ。なんとなく安心する。僕らが歩いているいったいでは、いたるところで、林道を作る工事をしていて、林道に点在する宿場には、見たこともないくらいおおきなトラックがたくさんとまっていた。林道を作る工事現場を見ていたが、ものすごい荒っぽくてさすがロシアという感じだった。そこのトラックの運ちゃんに乗せてもらって、少し距離を稼ぐ。ものすごい大きいトラックで、興奮を隠し切れなかった。30分くらい乗せてもらって、またもや歩き出す。1時間くらい歩いたところで比較的大きな宿場についた。比較的大きいといっても、小屋の役割をしているコンテナが数個おいてあるだけの小さなものなのだが。そこで休憩をとっていると、コックの人が出てきて、紅茶とカンポートをだしてくれた。本当にありがたい。30分くらいそのコックと談笑して、また長い道のりに出発。2時間くらい歩いたところで、三又の分かれ道に出る。これは地図ではどうしようもないと、休憩がてら車がくるのを待つ。この地点ですでに全工程の3分の2位は来ていたので車どおりも多くなっていた。3台目くらいの車をヒッチでつかまえ、いよいよブリアカンへ。と思ったら、なぜか途中で停車する。どういうことかと聞くとすごいだるそうに何か説明してくれた。残念ながら理解できん。僕らにどうすることもないので、仕方なく待っていると、一台のトラックが、どうやら僕らをここでトラックに乗せ換えるみたい。なされるがままにトラックにのり、その日の夕方とうとうブリアカンにつきましたとさ。

 

反省・改善点・雑記

     レジストレーションは本当に面倒くさかった。ロシアに関していえば、次回からは必ずビジネスビザにしたほうがよいだろう。

     お金がなさすぎた。もしお金があれば、戦車みたいな車をかりて、もっとスムーズに沢に入れたかもしれない。今回についていえば、一人あと5万円ずつ自由に使えれば、相当楽にプランが行えたであろう。

     ロシア語をもっと話せたほうがよかった。関にかかる負担が大きすぎた。というか、どう考えても関くらいはロシア語をしゃべれないと、ロシア遠征は無理だと思う。それが無理なら通訳をつけるしかない。

     熊防御が甘かった。日本でできる最大の防御は熊スプレーしかなかったとはいえ、もう少し熊について考えるべきだった。ロシアでの銃の購入。銃を持った現地ガイドを雇う等お金さえあれば方法はいくらでもあった。

     蚊についていえば、蚊帳つき帽子は絶対にいいやつを買うべきだということがわかった。今回安物を持っていったが、すぐに穴が開き精神的に多大なダメージをこうむった。

海外遠征は本当に難しいということがわかった。日本とはすべての感覚が違う。警察がどこまでやってくれるのかもわからないあし、日本領事館、留守本、ロシア政府、、、常に不安がつきまとった。しかし、自分にとって未知のところに行く楽しさやスリルみたいなものはあって、ある種非常にプリミティブな探検というものを味わうことができると思う。探検をする際には常に誰にとっての未知の領域かということが付きまというわけで、僕にとってまさしく全くの未知であったロシアニーラン沢は、沢登りこそできなかったものの、しっかりとした探検であった。現在学術探検が大きな勢力を持ち、プリミティブな探検が忘れ去られようとしているなか、このような探検ができたことは本当にうれしく思うし、僕の総括として、行ってよかったと断言することができる。いろいろあったが楽しかった。以上